B級グルメの食べ歩き

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zoom RSS 連絡 4/27 餃子ホットサンドを作りました。

<<   作成日時 : 2017/04/27 08:06   >>

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お早うございます。今朝は雨。13度。肌寒さを感じます。雨は9時過ぎには
上がりそうです。昨日は銀蔵秋葉原店で前の会社のメンバーが
集まって懇親会。年齢差はありますが楽しい会です。前日餃子を
焼いた残りがあったので朝は餃子ホットサンドを作りました。
残り餃子をレンジで温めて、食パンにキャベツを敷いて餃子を残
ったポン酢辣油に付けてホットサンドしました。餃子ドックより
美味しいかも。今日明日でGW。気張って下さい。小さな幸せを
見つけましょう。明るく楽しく健やかに素敵な一日をお過ごし下
さい。
今日は長崎港まつり、仏壇の日。ジョージ秋山、マイク真木、柴俊夫、藤原
喜明、シーナ・イーストン、加藤雅也、松野明美、原千晶、馬場典子、船木
和喜、岸田繁、間下このみ、木下奈緒子、大野紋香、鈴木杏の誕生日。
1946年日本初の婦人警官勤務につく。
★ブレイクタイム★
●「してあげていることはありますか?」
困っている人に助けの手を差し伸べたり、家庭や職場などで誰か
のサポートをしたり、日常の中で、誰かに「してあげていること
」はありますか?
「やさしさは害である」と言われてビックリしたのですが、以前
京都のお寺に行って、住職と話をする機会をいただきました。
お堂に入って、住職の前で正座で座り、「よろしくお願いします」
と頭を下げるところからスタートして、はじめは「最近どう?」
みたいな話題から始まったのですが、この先、どういった心構え
を持って生きればいいのか?という話になっていって、そこで言
われたのが、「やさしさと思いやりは違う。思いやりを持ちなさ
い」という言葉でした。
さらに続けて言われたのが、「やさしさは害だから、やさしくし
てはいかんよ」とのこと。仏教では「慈悲(あわれむ、いつくし
むこと)」というキーワードをよく見聞きします。そもそも「
やさしさ」と「思いやり」の違いも、分かるようで、よく分かり
ません。なんで「思いやり」は良くて、「やさしさ」は害なのか
質問してみました。
思いやりとは「させていただく」という、こちらが下手である言
葉で、やさしさとは「してあげる」という、上から目線の言葉。
同じように誰かに助けの手を差し伸べるにしても、思いやり・・
つまり「させていただく」の心持ちならば、徳を積むことができ
るが、やさしさ・・・つまり「してあげる」だと自分のツキを落
とすことになるよ・・・とのことでした。なるほどなぁ、と。
「やさしさは害である」「やさしさはツキを落とす」という言葉
については、正直なところまだ私は腑に落ちていないのですが、
同じことを提供するにしても、「させていただく」と「してあげ
る」では、提供するものも変わってくるでしょうし、その人のツ
キも変わってくる、というのは、確かにそうだろうと思いました。
「させていただく」というのは、相手を満足させようとすること
です。そして自分のココロを磨くことができます。
一方で「してあげる」というのは、自分を満足させようとするこ
とです。下手をすると「してあげたのだから、お礼やお返しをし
なさい」と返礼を求めるココロが沸き上がってきます。
特に身近な人間関係でありがちだと思うのですが、「してあげる」
の臭いが強くなってくると、息苦しくなってきたり関係が長続き
しなかったりしますね。
あなたは、きっと毎日誰かに何かしらの「厚意」を提供されてい
る方だと思います。
あなたの厚意は「させていただく」でしょうか?
それとも「してあげる」でしょうか?
「してあげる」が1つでも「させていただく」に変われば、ツキ
(運力)もアップする・・・かもしれないですね。
●ビジネスにおいて、
★解決不能な問題はない。
NHKやテレビ東京、日経産業新聞などで話題の「マレーシア大
富豪」をご存じだろうか?お名前は小西史彦さん。24歳のときに、
無一文で日本を飛び出し、一代で、上場企業を含む約50社の一大
企業グループを築き上げた人物。マレーシア国王から民間人とし
て最高位の称号「タンスリ」を授けられた、国民的VIPである。
このたび、小西さんがこれまでの人生で培ってきた「最強の人生
訓」をまとめた書籍『マレーシア大富豪の教え』が刊行された。
本連載では、「お金」「仕事」「信頼」「交渉」「人脈」「幸運」
など、100%実話に基づく「最強の人生訓」の一部をご紹介する。
人生とは「想定外」のものである
私は、平凡だからこそリスクを取るべきだと考えています。
ただし、無謀なリスクを衝動的に取るようなことをしてはいけな
い。しっかりと自分の頭でリスクを量って、命までは取られない
範囲でリスクを取らなければなりません。これが大鉄則です。
とはいえ、人生には想定外のことが起きるものです。
どんなに事前にリスクを量っても、そのとおりにいくなどという
ことはありえない。いや、むしろ、「想定外」のことが起きるの
が人生である、というのが正しいでしょう。特に、若いころは経
験値がないからなおさら危うい。私も、ずいぶんと「想定外」の
出来事で痛い目にあいました。
私は、日本を飛び出してわずか2ヶ月で解雇の憂き目(うきめ)
にあったのですが、その背景には国家レベルの異変があった。ま
さしく想定外。私の努力でどうにかできる問題ではなかった。い
よいよ海外雄飛(かいがいゆうひ)と勢い込んでいるときに、と
てつもないアクシデントに見舞われたのですから、大きなショッ
クを受けたものです。
ことのきっかけは、国立マラヤ大学留学中にさかのぼります。
当時、ご縁があって、シンガポール在住の若い華僑の経営者と知
り合いました。シンガポールまで会いにいくと、彼のマンション
に泊まらせてくれたうえに、あちこち案内してくれるなど、ずい
ぶんと親切にしてもらいました。
その後も、何度かシンガポールまで彼に会いに行って親交を深め
るうちに、彼が「小西、お前うちにこないか?」と誘ってくれま
した。日本の有名なメーカーとシンガポールに合弁会社をつくっ
て、新しいビジネスを立ち上げたので、そこの社員として働いて
みないか、という誘いでした。
これは、私にとっては願ったり叶ったりの誘いでした。なぜなら、
マレーシアに住みたいと思っていましたが、日本の大企業の駐在
員でもない私にワークパーミット(就業許可)が下りるはずがな
かったからです。しかし、彼が日本メーカーとつくる合弁会社の
社員になれば、シンガポールでのワークパーミットは取れると考
えたわけです。
★何事も「中途半端」に終わらせてはならない
彼の誘いに乗った私は、国立マラヤ大学の留学を終えると日本に
帰国。日本メーカーで技術研修を受けたうえで、シンガポールへ
移住する準備を進めていました。ところが、当時は気づきません
でしたが、このころからすでに異変の予兆がありました。
日本メーカー本社から、シンガポールの工場に送り込んだ機械が
どうしてもうまく動かないという連絡が入ったのです。そして、
私は、まだ正式に社員として採用されていたわけではありません
が、入社するという前提で、その機械を製造した和歌山の企業と
調整をしてほしいと依頼されたのです。
そこで、私はさっそく和歌山まで飛んで、機械をつくった会社の
社長とともに、シンガポールから続々と届く「あれが不具合」「
これが不具合」というクレームを受けながら、あれこれと調整を
続けました。しかし、それでも機械はまったく動いてくれません
でした。
弱り果てていると、日本メーカーの社長に呼び出されました。
そして、こんな言葉を投げかけられたのです。
「小西君、機械が動かないのでは、君も進退きわまったな」
つまり、機械が動かなければ、合弁会社は倒産させるしかない。
私の就職先そのものがなくなる、というわけです。機械が動かな
いのは、私の責任ではありません。にもかかわらず、いきなり前
途に暗雲が立ち込めたのですから、唖然(あぜん)としました。
歯を食いしばって、黙っているほかありませんでした。
すると、社長はこう問いかけました。「どうする?」
若かった私も、ピンと来ました。社長は、「シンガポールには行
かない」という返事を求めている、と。しかし、私は仕事を中途
半端に終わらせることに抵抗があった。それに、なんとしてもシ
ンガポールに渡りたかった。だから、こう応えました。
「それでも行きたいと思います」
★「自発性」を励ますものは「自発性」しかない
社長のもとを辞したその足で、私はそのメーカーでトラブルになっている機械
の輸出を担当した輸出部の部長に会いに行きました。すると、彼はこう言い
ました。「小西君、これはマーケットクレームだよ」
マーケットクレームとは貿易用語で、契約をしてからマーケット環境が不利
になった場合などに、買い主が損害を少なくするために、通常なら問題とな
らないような些細なことにクレームをつけることを指します。実際に機械が動
かないのだから、マーケットクレームには当たらないだろうと、私は怪訝(け
げん)に思いました。しかし、これは慧眼(けいがん)だったと、のちに思い知
らされることになります。
ともあれ、私は和歌山の製造会社の社長にことの次第を報告。
彼はたいへん意気地のある人物でした。話を聞いた彼は、こう熱く語ったの
です。「俺がつくった機械が動かないとは、こんな不名誉な話はない。必ず
動かしてみせる。ただ、俺は英語ができない。だから、小西さん。頼むから、
俺と一緒にシンガポールに行ってくれ」
そのつもりだった私は、もちろん賛成。彼の意欲におおいに励まされました。
自発性を励ますのは自発性しかないのです。すぐに準備を整えて、ふたり
でシンガポールに飛びました。そして、機械を動かすために悪戦苦闘。私
には機械のことがよくわかりませんから、通訳も一苦労でした。しかし、社
長は一流の技術者だったし、なにより自分がつくった機械ですから、試行
錯誤の末に機械は無事に稼働。これで局面が変わると疑いませんでした。
しかし、その後すぐに工場の閉鎖が決定。私は、正式に採用されてはい
ましたが、給料はいっさい支払われないまま解雇されることになりました。
何が起こっていたのか――。
それを知ったのは解雇された後のこと。シンガポールがマレーシア連邦か
ら離脱。マレーシアがシンガポールからの輸入品に高率の関税をかける
ことになったのです。これで、合弁会社が目論んでいたビジネスの最も重
要なファンダメンタル(基礎的な条件)が消し飛んでしまったのです。
シンガポールでつくった製品を、マレーシア全土で販売するはずでしたが、
それに高額の関税を課せられるとなるとビジネスとしてまったく成立しま
せん。機械が動いたところで意味がないわけです。そして、合弁会社をご
破算(はさん)にせざるを得なかったのです。
しかし、私にとっては青天の霹靂(せいてんのへきれき)。まったくの想定
外でしたが、おそらくシンガポール現地では、その政治動向を察知してい
たのでしょう。だから、工場の稼働をできる限り先延ばしにするために機
械のトラブルを利用した。マーケットクレームと指摘した輸出部長は、非
常に洞察力があったということです。たいしたものだと、いまも思います。
★ビジネスで「解決不可能」な問題はない
当時は、暗澹(あんたん)たる思いでした。
工場が閉鎖された1ヶ月後に、結婚したばかりの妻がシンガポールに
来ることになっていましたが、解雇されたことは言うに言えませんでした。
そして、当日、飛行場に迎えにいくと、妻は綺麗な和服を着てタラップを
降りて来ました。その姿に、彼女の異国で生きていく決意を見る思いが
して、「申し訳ない」という気持ちでいっぱいになったものです。
しかし、捨てる神あれば拾う神あり。合弁会社のシンガポール側の社長
が「申し訳なかった」と謝罪したうえで、知人の華僑の経営者を紹介して
くれました。その会社に日本の染料メーカーの代理権を取らせて、私に
マレーシアでの日本製染料の営業をさせるように交渉してくれたのです。
日本の染料メーカーも「小西がやるなら」と了解してくれました。こうして、
私は「想定外」のアクシデントをなんとか乗り越えることができたのです。
これが、私の人生の船出でした。
このように、人生には想定外のことが起きるのです。未来のことは誰にも
わからない。どんなに慎重にリスクを量っても、想定外の事態に巻き込ま
れるのが人生。だからこそ、先ほども言ったように、最悪の事態が生じて
も生き残る術を確保したうえで、リスクをとらなければなりません。私の場
合であれば、当時はまだ若かったし、薬剤師の免許をもっていた。だか
ら、いつでも海外から撤退できるという余裕がありました。
ただ、想定外のことが起きたからといって、すぐに撤退しているようでは何
事も成し遂げることはできません。 
私にも、「進退きわまったな」と言われたときや、工場閉鎖が決まったとき
に、撤退する選択肢はあった。しかし、私はそんなことは考えもしません
でした。それよりも、「目の前」の問題を解決するために全力を尽くしまし
た。これは、意地のようなものかもしれません。そういう性格なのでしょう。
しかし、私は、だからこそ自分なりの人生を切り拓くことができたと思って
います。
想定外のトラブルに巻き込まれても、その不運を嘆いたり、将来を案ず
るよりも、とにかく「目の前」の問題解決に全力を尽くすことが、未来を切
り拓くことにつながると思うのです。将来を心配し始めればきりがない。
そして、いくら心配したところで、事態は一向に変化しないのです。であ
れば、「目前の問題」に集中すべきです。
私は、ずいぶん長くビジネスの第一線で生きてきましたから、数えきれ
ないほどの想定外のトラブルに見舞われてきました。そうした経験を踏
まえて断言できるのは、ビジネスにおいて解決不可能な問題はない、
ということです。ビジネスは生易しいものではありませんが、しょせん人
間同士の営みです。そこに、解決不可能な問題はないと思うのです。
その証拠に、いまここに私はピンピンして生きている。「目前の問題」に
全力を尽くせば、必ず解決策は見つかるのです。
★「今」に集中すれば「未来」は拓かれる
もちろん、解決策を見出しても敗北に終わることもあります。
あのときの私がそうでした。動かない機械をなんとか動かすことに成功
したにもかかわらず、シンガポールがマレーシア連邦から離脱したがた
めに、その努力は「無」に帰してしまった。
しかし、だからこそ、私には次の「道」が与えられたのです。私に染料
営業の仕事を用意してくれた華僑経営者は、私に対する「申し訳ない」
という気持ちだけで手を尽くしてくれたわけではない。私が、窮地(きゅ
うち)に陥っても、逃げずに問題解決に全力を尽くした。その姿勢に信
頼を寄せてくれたからこそ、手を差し伸べてくれたのです。それは、私
が、知人に紹介された若者をサポートするようになって、よくわかるよう
になったことです。
たしかに、知人の紹介であればむげにはしません。しかし、それだけ
で全面的なサポートをすることはできない。なぜなら、サポートした人
物に“いい加減”な仕事をされれば、私の信頼までも傷つけられるか
らです。そのリスクは背負えない。だから、私は必ず、その人物をじっ
くりと見極めます。
そして、人物を見極めるひとつの指標が、窮地に陥ったときに、「目の
前」の問題解決にどれだけ誠実に向き合うか、ということです。多少、
不器用でも構わない。トラブルから逃げずに、全力を尽くす人間は信
頼できる。そして、そのような人物には、自然と支援の手が差し伸べ
られる。人生が切り拓かれていくのです。だから、想定外のトラブル
に巻き込まれたことを嘆くのではなく、「目の前」の問題解決に集中
すること。これが、「不確実な人生」を生きる基本なのです。
ちなみに、このことがあって10年ほどたってから、「進退きわまった
な」と口にした社長にお目にかかる機会がありました。そのとき、彼
はポロッとこう言いました。
「小西君、あのときは君に非常にすまないことをした。君を引き受け
るくらいの体力は、当社にもあったんだよ」
私は、この発言を謝罪だと受け取りました。そして、「いえ、そんなこ
とありませんよ」と軽く受け流しました。これは、本心でした。たしか
に、あのとき社員として会社に残してもらえれば、生活は安定した
かもしれません。しかし、サラリーマンになるつもりはなかったのだ
から、それは私の望むところではなかったからです。でも、そう言
っていただけたのは、ありがたいことだと思いました。
いま考えると、あのとき、あのシチュエーションがあったからこそ、私
は強靭(きょうじん)になれたのだと思います。「若いときの苦労は
買ってでもせよ」と言います。あのときは、苦汁(くじゅう)をなめさせ
られたと思いましたが、実は、人間として成長するために必要な「苦
労」をさせてもらえたということなのかもしれません。
苦しい状況が人間をつくる――。
それを、私は身をもって学ばせてもらったのです。
●【京都案内】龍馬も通った京の花街「島原」の意外な地名の由来
京都と聞いて思い浮かぶのは、舞妓さんや芸鼓さん。今でも京都に
は5つの花街がありますが、かつてはもう1ヶ所「島原」と呼ばれる
花街が存在していました。京都通の英さんが、その島原について詳
しく解説するとともに、「おもてなしの心」を学ぶ観光名所も紹介して
います。
★大夫が活躍した花街・島原
京都を代表するイメージの1つに花見小路や祇園白川の石畳を行き
交う舞妓さんや芸鼓さんの姿があります。京都の花であり、妖艶な魅
力を引き立てています。
京都の舞妓さん、芸鼓さんは5つの花街のどこかに所属しています。
祇園甲部、宮川町、先斗町、祇園東、上七軒の五花街です。上七軒
だけは北野天満宮の近くと少し離れた場所にありますが、それ以外
の花街は四条大橋を東西に挟んだエリアに点在しています。これら
の花街は秀吉の時代に始まったと伝えられていますのでもう400年
以上の歴史があります。江戸時代に栄えた江戸の吉原とは異なり、
京都ならではの独自の形態を保ちながら発展してきました。
京都の花街はかつて五花街以外にもう一ヶ所ありました。それが今
日ご紹介する島原という花街です。この場所は何度か移転を繰り返
し、今では西新屋敷という場所に落ち着きました。
島原はかつて幕府から三度移転を強いられ、現在地に引っ越してき
たと伝わります。その時の慌ただしい移転の様子が、その数年前
に起きた島原の乱を思わせたことから「島原」と呼ばれるようになった
そうです。江戸時代初期、17世紀前半の話です。
こちらは主に皇族や貴族を中心にもてなした花街で、当時女性に与
えられた最高の位・大夫を授けられた者が活躍した街です。今でも大
夫は存在するものの、ほんの1、2名ほどです。
島原の置屋兼お茶屋に輪違屋(わちがいや)があります。創業1688
年、320年以上の歴史を誇り、今も営業を続ける島原唯一の置屋で
す。輪違屋には今も大夫が在籍しています。お茶屋は揚屋(あげや)
のような場所とは違い、直接料理はせずに、仕出し屋などから取り
寄せをして宴会を行う場所です。かつて島原で栄えたもてなしの文
化を今に伝える揚屋「角屋(すみや)」をご紹介しましょう。
★角屋もてなしの文化美術館
島原には揚屋と置屋が存在します。文化サロンのような宴会場を揚
屋といい、揚屋に大夫を派遣するのが置屋といった感じです。
皇族や貴族たちの宴席に立ち会うために、大夫は読み書き以外に
も文学や和歌、胡弓など楽器などに精通し高い教養が求められまし
た。
揚屋は江戸の吉原では江戸時代になくなってしまったようですが、京
都の島原では大型の宴会場へと栄えていきました。揚屋の特徴は宴
会の出来る大きな座敷、日本庭園、茶席、庫裏(くり)が備わっている
ことです。客人を招いて宴会を催し、庭園にある茶席で茶会が出来て、
それを賄える台所が備わっている屋敷です。
揚屋と呼ばれるのは、一階を台所や居住部分とし、2階を主たる座敷
にしたからです。お客様を2階へ揚げることから揚屋と呼ぶようになっ
たそうです。角屋は現存する唯一の揚屋建築として、現在はもてなし
の文化美術館として見学出来ます。
角屋の1階の表座敷からは日本庭園を見渡すことが出来ます。その
一部の枯山水白砂の庭園には、龍が臥せたように作られた臥龍松
(がりゅうまつ)や離れの茶室があります。この表座敷には多くの文人
墨客が訪れたと伝わり、新撰組を始め、西郷隆盛、坂本竜馬なども通
っていたといいます。
角屋の真骨頂は2階の座敷にあります。もてなしの館なだけに、揚屋
の2階はとても豪華です。2階の「翠簾(みす)の間」や「青貝の間」の
ほか6部屋あります。ガイドの説明を聞きながら見学するのですが、
見るもの全てが豪華絢爛で溜息が出るほどです。
京都に行って雨が降ってしまったりして、行こうと思っていたところに
いけない時などはこのような場所を訪れてみて下さい。雨が降ってい
ても屋内ですし、詳しく色々な事を教えてくれるのでとても勉強になり
ます。是非皆様も一度足を運んでみて下さい。
● 角屋もてなしの文化美術館
開館時間:午前10時〜午後4時
休館日:月曜日(祝日の場合翌日)
入館料:一般1000円、中・高生800円、小学生500円
(2階の特別公開料金を除く)
※2階の特別公開の座敷は、事前にお電話予約が必要です。
2階特別公開 案内時間(約30分)
電話番号:075-351-0024(午前10時〜午後5時)
入場料の他に別途料金が必要。大人800円、中・高生600円





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