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<<   作成日時 : 2017/11/09 20:37   >>

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亜細亜最新情報 ★ブレイクタイム★
●林彪、規約から消された「幻の後継者」
権威と権力の一極化を進める中国の習近平・国家主席はこれまでの慣行を
崩し、後継者となる次世代リーダーを確定させずに政権2期目をスタート
させた。今後は2022年の共産党大会における自身の3選をにらみながら
「ポスト習」を巡る駆け引きが続きそうだ。現代中国の歴史では、1970年
代前半に起きた「林彪事件」以降の数年間にも後継者不在の状況が続いた
という。林彪・党副主席(1907~71)は毛沢東、ケ小平、今回の習主席の
3人と同じように、かつては党規約に自分自身の名前が明記された別格扱
いの指導者だった。しかし、事件後に除名処分を受け「幻の後継者」とな
った。林彪の足跡をたどることで、中国指導者の5年後を占うヒントが得
られるかもしれない。
★「ケネディ暗殺」に匹敵?ナゾ多い林彪事件
「林彪事件」は1971年9月、毛沢東暗殺のクーデター計画に失敗した林彪
が空路ソ連(当時)への逃亡を図り、モンゴル領内で墜落死したとされる
事件だ。69年の第9回共産党大会で、毛沢東の後継者と規約に盛り込まれ
たばかりだった。後継者の氏名を規約中に記すのは異例中の異例で、中国
共産党でも前後このケースしかない。東洋学園大学の朱建栄教授は「林彪
事件は46年経過した今日でも全容が解明されてはいない」と指摘する。残
されたナゾが多い政治事件としては、同じ20世紀後半の「ケネディ米大統
領暗殺」(63年)と並ぶかも知れない。「ケネディ暗殺」は米ダラス市で
起きたことは間違いないものの、「オズワルド単独犯説」には今も異論が
少なくない。
林彪もモンゴル草原に墜落した専用機に搭乗していたことは確実だという。
しかし林彪は個人崇拝で神格化された毛沢東の「親密な戦友」と称賛され、
こちらも絶対無二の地位を独占していた。企業に例えれば次期社長が確実
な、代表権を持った唯一の副社長だ。当時77歳の毛沢東からの禅譲を待て
ずにクーデターを謀ったとする、従来の公式見解を疑問視する声は後を断
たない。
★毛沢東が重用、常勝で新国家成立を早める?
「林彪は政治的なリーダーというより最初から最後まで生粋の軍人だった」
と朱建栄教授は分析する。軍事的な才能は抜群で、中隊長としても軍司令
官としても非凡な戦略を編み出したという。林彪の戦術に「三三制」と呼
ぶ戦闘態勢がある。白兵戦などを3人1組で当たらせる効率的な方法で、
軍事教練をあまり受けていない農民兵などにも理解しやすかった。組織人
としては上司にも恵まれていた。黄埔軍官学校での教官は周恩来で、南昌
蜂起に参加した際の指揮官は後に人民解放軍総司令となった朱徳だ。
しかし林彪の才能を最も愛したのは毛沢東だった。「毛沢東は第1軍団長、
第1師団長など最も重要なポジションには必ず林彪を任命した」と朱教授
は解説する。「長征」途上で林彪は公然と毛沢東の方針に逆らったことが
ある。しかし「子供に何が分かる」と意に介さず最年少の軍事指導者とし
て重用し続けた。逆に対日戦争で林彪が負傷したときは異例の心配りを見
せたという。毛沢東は人民戦争理論、遊撃戦論、持久戦論など独特の軍事
理論を持つ。「林彪自身も現場指揮官として毛沢東を信頼しきっていた」
と朱教授。林彪は抗日戦争最初の勝利とされる「平型関戦役」を指揮し、
国共内戦でも「遼瀋戦役」「平津戦役」といった重要な戦いに完勝して「
新中国の樹立を毛沢東の当初目標より3、4年早めた」(朱建栄教授)と
いう。林彪の第四野戦軍は東北部から広州広西などまで中国大陸を縦断し
た。「建国後も国防計画の立案をリードしていったのは林彪だ」(朱教授)
ただ林彪の人脈は軍内中心で、政治的な影響力は限られていた。毛沢東、
周恩来らの革命第1世代に続く、第2世代の「ポスト毛」候補としての評
価は@ケ小平(総書記)A彭真(北京市長)に続く3位だったと朱建栄教
授は分析する。林彪自身、戦争で受けた傷がもとでの病弱な身をかばわざ
るを得ず、公的活動から遠ざかっていた時期もある。
★文革で政治の表舞台に、毛沢東には警戒心も
その林彪が政治の表舞台で活躍するのは文化大革命の時だ。毛沢東が劉少
奇・国家主席から政治権力を奪い返せたのは国防相の林彪の協力が大きい。
ただ「林彪が文革を利用した大野心家という評価は間違いだ」と朱教授は
力説する。通称「文革派」と「実権派」の全面対決となった66年8月の
「第8期11中全大会」でも、毛沢東の度重なる説得にもかかわらず、林
彪は療養先の大連を動こうとしなかった。失脚した劉少奇に代わっての後
継者に擬せられた時に「気分が重い。もっと適した同志にいつでも引き継
ぐ用意はある」と発言したのは党内へのリップサーブスばかりではなかっ
たようだ。朱教授は「軍人としての野心以上のものは希薄だった」と推定
している。
それ以上に「林彪は私淑する一方、毛沢東を恐れて用心していた」と朱教
授は話す。自らは目立つこと無く「毛沢東に寄り添う」ことに徹するのが
林彪の処世術だったという。しかし林彪の部下たちに十分に通じていたか
は疑問だ。
69年の第9回党大会は軍人が大量に政治進出した大会として知られてい
る。要の政治局員には林彪の妻・葉群や4人の直系将軍が抜てきされるな
ど林彪派で過半数を占めたという。毛沢東の政治秘書で著作代筆も手掛け
たという陳伯達・政治局常務委員はナンバー4に昇格し、林彪に急接近し
た。「これらが毛沢東の警戒心をあおった。林彪の権勢が頂点に達した第
9回大会から毛沢東の掣肘(せいちゅう)が始まった」(朱教授)。人事
の思惑違いが原因だったわけだ。
毛沢東のマネジメント術における基本のひとつは「分割統治」だという。
部下たちを競わせ、2派のバランスに立つことでトップの座を不動のもの
にしてきた。朝鮮戦争に派遣した司令官は彭徳懐だったが、指揮した部下
の多くは林彪の第四野戦軍系だった。ナンバー2を巡っては劉少奇と東北
行政委員会主席の高崗と競わせた。彭真の北京市長解任には劉少奇・ケ小
平の賛成も獲得した。文革では林彪を利用して北京中心に政治、経済、党
人事を握る劉少奇派を一掃した。しかし今度は林彪が強大になりすぎたわ
けだ。
林彪に対して毛沢東は江青夫人の側近である張春橋らを当たらせた。劉少
奇に対したときのように直接林彪をたたくことはせず、周囲の腹心らをひ
とりひとり失脚させることで力を削いでいったという。
★「歴戦の雄」毛沢東、後継者育成には失敗
現役の空軍将校だった林彪の子息が立案したといわれている「毛沢東暗殺
計画」は、内容が杜撰(ずさん)すぎて実現はとうてい不可能だ。林彪系
の将軍たちも寝耳に水だったようで、朱教授も「プロ中のプロ軍人である
林彪が関与していたとは考えられない」と断言する。ソ連への国外逃亡で
は一直戦にイルクーツクへ向かうのではなく、中国、モンゴル上空で不可
解な進路方向の転換を繰り返していたことが判明している。機中で実際に
は何が起きていたのか。こうしたナゾが明らかになるのにはまだまだ時間
がかかりそうだ。
毛沢東にとっても林彪の墜落死は想像外だったようだ。その後急速に老化
が進んだという。林彪の勢力を削(そ)ぐことに集中しても、劉少奇のよ
うに失脚・追放することまでは考えていなかったという見方も根強い。林
彪が毛沢東の子飼いの軍人であることは国内外で知られていた。失脚させ
れば人事権者としての毛沢東自身の見識も疑われてしまう。実際、林彪事
件を境に無謬(むびゅう)の指導者という毛沢東像は崩れ、威信は急速に
低下していく。朱教授は林彪事件を「高齢化した毛沢東の権力への執着と
疑心が原因」と結論付けている。
毛沢東自身が想定していた後継者像は、やはり自分と同じように現場に精
通したタイプだったようだ。最初の後継者である劉少奇に対しては、1940
年代後半から土地改革の進め方などに不安を感じていたという。農村の現
場を知らず理論に走りすぎているとの評価だった。長年都市部の労働運動
などを担当してきた劉少奇と、農村中心で勢力を拡大してきた毛沢東では
肌合いが違いすぎた。
林彪事件以後の後継者選びは迷走した。71年には上海の模範的な労働者
だった39歳の王洪文を副主席に抜てきするが、短期間に経験不足、能力
不足を露呈してしまった。窮余の策として73年にケ小平を復活させたが、
江青夫人ら文革派との衝突が治まらなかった。最後は死去直前の76年、
華国鋒の首相への抜てきだ。毛沢東が華国鋒のトップとしての資質をど
こまで知っていたかは分からない。華国鋒に「あなたがやれば私は安心
だ」とのお墨付き≠与えたと伝わっているが、心からの本心とは思
えない。長年の内戦と数多くの党内闘争を全て勝ち抜いてきた毛沢東も、
後継者育成では完全に失敗した。
現在チャイナウオッチャーたちの目は早くも5年後に向いている。朱教
授は習近平の3選問題は習思想が唱える「習近平新時代の中国の特色あ
る社会主義」の達成度次第だと予想する。「強大な中国の建設」が順調
に進めば2022年に後進に譲るだろうとの見立てだ。党内に習思想が浸透
していなければ3選に踏み切る公算が強くなる。現段階で権力集中を強
める習近平政権に、国内での死角は見当たらなさそうだ。しかし人事の
ちょっとした思惑の違いで中国の政局は大きく揺れ動く可能性があるこ
とを46年前の林彪事件は教えている。
●毛沢東、30代に受けた6回の「左遷」
24日に閉幕する中国共産党全国代表会で「一強」体制構築を進める習
近平・国家主席と、その権力モデルとされる毛沢東・共産党主席(1893
~1976)とに、中国トップに上りつめる過程での共通点を指摘する声もあ
る。両者とも党エリートの主流とは当初見なされておらず、北京や上海
で活躍するより地方活動が長かった。しかし30代の習主席が福建省で順
調に地方幹部のキャリアを積んでいったのに対し、毛主席は同じ年齢の
頃に左遷、降格、病気休職など6回の挫折を味わった。その経緯を追っ
た。
★若い時には「心の不調」、失敗が新たな戦略生む
1度目は24年から25年にかけて故郷に戻っての病気療養だ。上海の本
拠地を持つ共産党で中央局秘書という中枢の役職だったが、労働運動の
低迷などに展望を見いだせなくなったという精神的な理由だったと伝え
られている。毛沢東にも現代企業社会の若手社員と同じように、将来に
期待を持てず体に変調を来すナイーブな一面があったようだ。
続いて現代史への毛沢東のデビューとなった27年の「秋収蜂起」だが、
これは散々な結果に終わった。国民党に弾圧された共産党は、中国各地
の武装蜂起で反撃することになり、毛沢東は湖南省・長沙攻略を前敵委
員会書記として現地で直接指導した。しかしこの作戦は裏切りなどです
ぐ敗北し、毛沢東は残った農民兵ら約1000人とともに湖南・江西両省の
境にある井崗山へと逃れ、地元の土匪(山賊)の協力を得ながら生き残
りを図らざるを得なかった。上海の指導部は毛沢東の政治局候補委員を
解任し、続いて党湖南省委員会の指導職も失った。当時の毛沢東が参考
にしたのはマルクスやレーニンの著作ではなく「水滸伝」などの在野の
英雄が活躍する歴史小説だったという。
ただ、少数ながらも紅軍を指揮し、井崗山で根拠地を運営した経験が、
新たな革命モデルを構築することにつながった。人口の9割以上を占め
る農民を中心として、農村の根拠地を拡大していき都市を包囲するとい
う中国独自の戦略だ。それまでの革命モデルは、1917年のロシアにお
ける11月革命しかなかった。しかし「革命機運が高潮した時期に先鋭
化した都市部の労働者が蜂起し権力を奪取する」パターンは中国の実
情に合わなかった。
★現場主義で勢力拡大、ゲリラ戦術で勝利呼び込む
東洋学園大学の朱建栄教授は「毛沢東自身が農民の出身で、中国社会の
リアルな現場を熟知していた」と指摘する。「秋収蜂起」の前に湖南省
の農村をフィールドワークで調査し、中国独自のモデルを模索していた
という。毛沢東の「農村から都市を包囲する」という理論は、その後ア
ジアやアフリカ、南米など各地の革命運動に応用された。20世紀後半の
世界の動きを示す重要なキ−ワードとして今日に伝わっている。
毛沢東の現場主義を示すのに紅軍に示した「3大紀律・6大注意」(後
に8大に変更)がある。物を盗むな、壊したら弁償しろといったごく素
朴な内容だが、軍隊の略奪や殺人、放火が横行していた約100年前の中
国では農民の共感を得るのに役だったようだ。より効果的だったのが土
地革命だ。地主・富農の土地・財産を没収して貧しい農民に分配した。
農民が最も関心があるのは土地問題であることを毛沢東は知り尽くして
いた。中国革命は農民革命であり、農民革命は土地革命であるという考
えはその後の「毛沢東思想」にも色濃く反映されている。毛沢東は国民
党相手にしぶといゲリラ戦を展開し、他の共産党部隊を吸収しつつ支配
地域を拡大していった。指導部でも中央委員に復帰した。
しかし組織拡大が次の左遷につながった。紅軍内の派閥抗争に敗れ、前
敵委員会の「書記」を解任された。当時の共産党指導部の調停もあって
数カ月で復職を果たし、逆に毛沢東は軍内指導権を掌握した。30年末
から31年にかけては国民党からの3度の大規模な掃討戦(掃共戦)に
も勝利した。「敵紅軍地域に深く引き入れ、疲れたところを撃退する」
ゲリラ戦術が的中した。遊撃戦、持久戦などの戦術を状況に応じて駆
使したという。
★帰国留学生組との対立で2年間の挫折
ただいくら戦果を挙げても上海の共産党指導部から見て毛沢東は地域の
一代表に過ぎない。朱建栄教授は「例えれば共産党中央は上海に拠点を
置く本社だが弾圧を受け破産の危機。一方、毛沢東の地方子会社は着実
に業績を伸ばしている状況」だったという。さらに当時はソ連(当時)
の第3インターナショナル(コミンテルン)が世界の共産主義運動を指
導していた。そのソ連で共産主義理論を学び、積極攻撃で都市部での権
力を急ぎたい帰国留学生組は、いわば外資系本社と太い人脈を持つエリ
ート社員が中国子会社に出向した形。地方根拠地の実情を重視する毛沢
東とは描く戦略が違っていた。
31年11月に江西省瑞金で樹立した「中華ソビエト共和国臨時政府」主
席に毛沢東が選ばれたのは、軍権から遠ざけようとする棚上げの狙いが
あったという。翌年1月には作戦方針を巡って毛沢東が病気療養に追い
込まれる。5度目の挫折だ。この時もすぐ復帰したものの、続く6度目
の左遷は決定的なダメージとなった。同年10月の「寧都会議」で毛沢
東は軍権を剝奪され、約2年間実権を失った。
都市vs地方、帰国留学生vs国内土着派、積極攻撃vs持久戦といった対
立軸のほかに、左遷には指導者としての毛沢東の性格も影響していた。
高圧的な態度で気性が荒く、言葉も冷たく、方針決定の際には独断専攻
的だったという。周恩来も名前を伏せながら「勝手にしゃべりまくり際
限がない」などと批判している。軍事的には才能を発揮したが、30代の
毛沢東は政治的に未熟だったわけだ。
一方、朱建栄教授は「この左遷が結果的に毛沢東にはプラスに働いた」
と指摘する。独断的な態度を改め「相手を説得して自分に同調させる」
テクニックを身に付けた。さらに疎遠だった帰国留学生組とも親交を持
つようにした。具体的には党リーダーの博古と距離を置く張聞天、王稼
祥といったメンバーだ。いずれも帰国留学生だが、主流派を形成してい
たメンバーの間にも分裂の目があったのを毛沢東は見逃さなかった。も
ちろん朱徳、彭徳懐、林彪といった井崗山以来の軍内の人脈とのつなが
りも維持した。朱建栄教授は当時の共産党内における紅軍の存在を「現
代のメーカーにおける主力工場」と例える。毛沢東は「ものづくり」の
現場も技術者も直接知っていたのが強みだった。全国的に圧倒的に不利
な状況にもかかわらず党勢を拡大できたのは毛沢東の地域だけだった。
★現場を知るリーダーは指示が細かい
34年10月、中国共産党は国民党政府からの攻撃に耐えきれず、瑞金の
本拠地から放棄し「長征」に出発する。約8万人の兵力は約2カ月で3
万人に激減した。翌年1月に毛沢東は張、王らとはかって「遵義会議」
を開催させ、指導グループだった博古、オットー(ドイツ人の軍事顧問)
らを一新した。これまでは毛沢東は遵義会議で党内の全権を握ったとさ
れる。しかし現在では、単独で共産党を指導できるほどの場ではなかっ
たという説が有力だ。毛沢東は政治局常務委員として復活した。
その後、政治的には当時の盟友・張聞天が主導権を握り、毛沢東は周恩
来、王稼祥との3人で軍事指導をすることになったという。徐々に周恩
来から軍権を奪っていき。最終的には軍権を1人で確立することができ
た。当時の中国の状況は共産党と国民党との対立だけではない。31年
には日中戦争への導火線となる「満州事変」が起きており、国際的にも
33年にはドイツでヒトラー政権が成立していた。朱建栄教授は「めま
ぐるしく変化する情勢の中で『現場主義』を貫いたことが毛沢東が復活
できた理由だった」と結論づける。
ところで現場を知るリーダーは指示が細かい。東洋的な「大人」に見え
る毛沢東も例外では無かった。朱建栄教授は「中国のリーダーは細かい
ところを自分で決めるタイプと信頼する部下と相談しながら決めるタイ
プがあるが、重大な決定に関してはいずれも他人任せではない」と話す。
前者はケ小平、後者が毛沢東だろう。典型的なのが朝鮮戦争参戦のケー
スだ。
共産党政治局の支持を「1対2対7」の圧倒的な不利から熟練の党内操
縦で形成を覆して参戦に決定させた毛沢東だったが、すぐに大きなカベ
に当たった。同じ共産主義陣営にありながらのソ連空軍の不参加だ。ソ
連のスターリン首相は「中ソ友好同盟条約」で中国が侵略された場合は
空軍を出動させると約束したものの、朝鮮戦争では米ソ開戦につながり
そうな動きは極力回避した。朝鮮戦争はもともとソ連が北朝鮮に了解を
与えたために起きた戦争だ。派遣司令官の彭徳懐らは激怒し対ソ不信感
を強めたという。
毛沢東は周恩来首相をスターリンとの談判にモスクワへ派遣する一方、
一時出兵計画を凍結した。空軍の援護を受けられない派遣軍将校の不満
をなだめる「ガス抜き」の狙いがあったという。さらに北朝鮮側の防御
ラインを下げるなど計画を練り直した。出兵期日を早めたり戻したり、
朝鮮半島内での司令本部の場所を変更させたりと、きめ細かく作戦を変
更したという。指示の出し方は不規則・強引でもあり、意志の疎通が混
乱する原因にもなりかねなかった。しかし周恩来ら当時の指導者層はこ
うした毛沢東の方法に慣れており、恐れていた命令伝達ミスなどは生じ
なかったようだ。情勢の変化に対応して計画を変更し一瞬の戦機をつか
むのが毛沢東の政策決定方式だったと朱建栄教授は分析している。

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