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zoom RSS 2018/1/1 謹賀新年

<<   作成日時 : 2018/01/02 22:55   >>

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★ブレイクタイム★
新春のお喜びを申し上げます。
良き新年をおむんぇのことと存じます。
昨年中は並々ならぬご厚情を賜り、厚く御礼申し上げます。
本年も昨年同様、ご指導の程よろしくお願いいたします。
皆様のご健康と御多幸をお祈り申し上げます。
               平成三十年元旦
●平成三十年がスタートしました。以前の様に、会社を去る決意をした
ような緊張感もなくのんびりした正月を迎えました。気が向くままに動
いていた一昨年から、9月以降毎週横浜に通うようになり、活動サイク
ルが出来ました。本人は楽隠居が望みなんですけど、65歳前で年金が半
分位なので、毎月出費が嵩みます。貯えも一気に減少しました。今年4
月に65歳、高齢者の仲間入り。年金も満額支給になります。ここで少
し生活形態を見直す必要も感じています。ストレスもあるでしょうが定
期的に通う仕事をしていると言うのは人間の生きがいなのかも知れませ
んね。マイナスしかなかった口座にプラスの振り込みがあるのは金額の
多寡に関わらず嬉しい事です。現役の皆様。幸せを噛みしめて下さいね。
●「大晦日っぽいことはありますか?」
「年末は大晦日っぽいことを書かないとなぁ・・・」ということを、さ
っきからずっと考えているのですが・・・何も浮かんでこないです。
特に用事がないことをいいことに、ダラダラと過去に大晦日・正月に書
いた記事を読み返したり、ネタ帳を見返したりしているのですがまった
く「大晦日っぽいこと」が浮かんできません。
時間がなければ、えいっやっで書き上げてしまうのですが、時間がある
と、アタマのエンジンがなかなか掛からないですね。アタマを抱えてい
ても仕方がないので、とにかく手を動かそうを思って、ここまで書いた
のですが、ここで手も止まってしまいました・・・イカンイカン、気を
取り直して、どこで読んだのか、誰が言っていたのかも忘れてしまいま
したが、プロゴルファーが、こんなニュアンスの話をしていたのを思い
出しました。「ボクがこれまでの練習や実戦で得た、全てのゴルフ理論
を一冊の本にまとめたことがあります。そうしたら急にスランプになっ
てしまって、今までのスコアが出なくなったのです」自分のアタマの中
にあったものを、言葉にして書き出す作業によってアタマは変化したけ
ど、カラダがそれについていけずアタマとカラダのバランスが崩れてス
ランプになってしまったのでしょう。ものを書き続け、アタマの中のも
のを出し続けているとそんな感覚になることがたまにあります。
思考の一部分だけが、どんどん前に歩いていって、周りの他の思考やら
感情やらが、慌ててそれを追いかけていくような。それがすぐに追いつ
けるものだといいのですが、なかなか追いつかなくてアタマの中にアン
バランスで不安定な空間ができてしまうわけです。そのアンバランスさ
が時に気持ち悪かったり、心身共にドッと疲れさせることもあれば、逆
に心地よかったり、楽しくなってきたり、前に進む原動力になることも
あります。そんなことありませんか?今日は久しぶりにそんな感じです。
・・・と、ここまで書いたものを読み返したのですが、何を書いている
んだ俺という感じですね。なんか、大晦日っぽい話もできず、スミマセ
ン。おせちを食べて、明日から頑張ります。
●「来年の抱負は何ですか?」
「来年の抱負は何ですか?」と聞かれたのは、正月明けのこと。年の初
めって、去年なのか、今年なのか、来年なのかアタマの中でゴッチャに
なることがありますね。だから「今年の抱負」の言い間違いなのかな?
と思って聞き返してみたら、やはり「来年の抱負」とのこと。
つまり、2017年のはじめに、2018年の抱負を聞かれたわけです。
なんでそんなことを聞くのですか?と逆に聞いたら、今から今年の抱負
を考えるようでは、目先や足元のことしかアタマに浮かびませんが、1
年後の過ごし方を考えると、ものすごく視野が広がりますよ。とのこと。
試しに「来年の抱負」を2017年の頭に考えてみたらそれまでには思
いつかなかった言葉がたくさん降りてきました。例えば、私の2018
年の抱負として「企業間で役に立つ仕事や橋渡しをする」という言葉が
出てきました。もともと会社から去った時に個人事業主として登録し、
企業の経費削減のお手伝いをしながら、のんびり暮らそうと言うのがあ
りました。プリントコスト削減、電気代削減、ミネラルウォーター削減
電報・電話代などコスト削減のお手伝いを細々としてきました。でも手
ごたえは薄く、何が役に立てるかと思っていたら昨年の中頃に師匠の大
先輩から紹介された会社がその目的と合致していたのを感じて週一では
ありますが参加してきました。まだ具体的な成果には繋がっていません
が今年は企業のお役に立てるように活動して行けそうです。おそらく2
018年に向けての種まきのようなことができたと思います。
今年は本気で企業に役立てる一年になるだろうと思います。
・・・何が言いたいのかというと、今朝は、朝イチから「2019年の
抱負」を考えてます。アレコレとアイデアは出てきて、ここで立てた抱
負によって、2018年がずいぶんと変わってしまうのは確実ですね。
2020年には東京オリンピックがあって、日本中が盛り上がるでしょ
うし景気も良くなるでしょう。でも、その後に祭りのあとというか、「
盛り上がりの反動」が来るでしょう。そんな変化の多い年に備えて、1
年前に、一体どんな準備をすればいいのか?
一年あればできることは、いろいろありそうです。
「今年の抱負」だと、禁煙とか、ダイエットとか、貯金とか、資格の勉
強とか今日の延長で考えてしまいがちですが、「来年の抱負」だと、自分
の人生をどう使うか、そして世の中がどう変わるか、変えたいか、とい
う広い視野で考えることができると思います。
あなたの「2019年の抱負」は何ですか?
●倒産企業の優秀社員採用した「井伊の赤備え」部隊
NHKの大河ドラマで注目の井伊家。今川家の支配下にあって桶狭間の戦
いや暗殺によって当主が不在となり、家を継いだ"おんな城主"直虎に育
てられたのが、直政である。やがて徳川軍団に加わった直政は、「赤備
え」の精鋭を率いて活躍し、敵から「赤鬼」と恐れられた。徳川四天王
でもっとも若い直政は、最終的に石高は徳川軍団トップ、筆頭家老とな
った。没落していた井伊家をみごとに再興したが、自身は42歳の若さ
で命を落とす。火花のごとく激しくも短い直政の生涯からビジネスのヒ
ントを探る。
★家康の小姓から突撃隊長へ
桶狭間の戦いで今川義元が討たれた翌年、井伊直政は井伊谷(いいのや
)(静岡県浜松市)に誕生した。出自に関してはのちに紹介するが、直
政が2歳のとき、井伊家の家督を継ぐ男子は直政のみとなり、存続の
危機にあった。苦難を乗り越えて徳川家康に仕えはじめたのは15歳の
とき。当時虎松と名乗っていた直政は家康の小姓となり、家康の幼名
「竹千代」から千代の字をもらい、万千代と名を改めている。 
 このころ徳川家は、織田家との連合軍で長篠・設楽原(したらがは
ら)において武田勝頼を撃破している。家康は、新たに領土となった
遠江の旧今川家臣団を吸収し、人材発掘に力を入れていた。そこで直
政が目に止まったというわけだ。
家康は聡明な直政を気に入ったようで、早くから軍事や外交、内政に
携わらせた。家臣の誰もがほしがった栗毛の名馬を直政に与えるなど、
かなりかわいがっている。家康の長男である信康の2歳下であったこ
とを考えれば、直政はできのよい子どものように映っていたのかもし
れない。
家康の小姓となった次の年、直政は初陣を飾る。没落した今川の旧領
をめぐって武田勝頼と争った遠江芝原(しばはら)の戦いにおける直
政の活躍は、『井伊家伝記』に以下のように記されている。
夜、陣営において家康が寝ていたところ、武田の間者が数人忍びこん
できた。これに気づいた万千代(直政)は間者に斬りかかり、みごと
撃退に成功する――戦場での活躍もあっただろうが、直政の最大の功
績は、暗殺を防いだことにあった。
家康の覚えめでたい直政は、これ以後、家康直属の軍事集団である旗
本先手役に加わり、大先輩の本多忠勝や榊原康政たちと戦場で功を争
うようになっていく。新参者と見られていた直政には、古くから仕え
る三河武士たちからの嫉妬も激しかった。突然入ってきた中途採用の
若者が、古参の者たちをどんどん追い抜きスピード出世していくのだ。
やっかむのも当然であろう。
家康はもとより同じ軍団の仲間の信頼を得るために、直政は戦場で活
躍するよりほかなかった。徳川軍団においてつねに先陣を務め、その
先頭に立って敵を切り崩す突撃隊長・井伊直政が誕生したのである。
★秀吉も恐れた「井伊の赤備え」の誕生
直政は、田中城攻め、高天神城攻め、伊賀越えなどで功績を挙げてい
く。1582(天正10)年22歳で元服して侍大将となる。これで榊原康
政と本多忠勝と同列になり、酒井忠次を加えた「徳川四天王」が徳川
軍団にそろう。新参の直政は際立って若く、忠勝と康政が13歳年上、
忠次にいたっては34歳も年上だ。
伊賀越えで三河(愛知県東部)に戻った家康は、態勢を整えて甲斐
(山梨県)で起こった武田旧臣らによる一揆を平定。かつて苦しめら
れた武田軍を編成下に加えた。
そして、最強と呼ばれた武田騎馬隊は、直政に与えられた。現代でい
えば、倒産したライバル企業の優秀な社員を部署ごとそのまま採用し
たようなもの。その直属の責任者が、若手のホープである直政という
わけだ。
家康は1572(元亀3)年の三方ヶ原の戦いで、武具や馬具、旗指物を
朱色に染めた武田家重臣の山県昌景(やまがたまさかげ)が率いる
「赤備え」部隊に叩きのめされ、命からがら逃げのびたことを覚えて
いた。当時、「恐ろしきは山県である」とまで語ったとされる。
そのスタイルを踏襲した直政の部隊は、旗や甲冑、鞍や鎧あぶみ、大
将の羽織や着物にいたるまですべてが赤一色に統一された。赤色の装
備は、誰もが身につけられるわけではなく、特殊部隊にしか許されな
かった。
若い直政が指揮官に抜擢された理由は、勇猛な戦いぶりはもちろん、
直政自身が今川家の旧臣であり、新参者の心情を理解できる見こみが
あったからだろう。こうして、徳川軍団一の精強部隊である「井伊の
赤備え」が誕生した。
赤備えは、誕生から2年後の小牧・長久手の戦いで真価を発揮する。
羽柴(豊臣)秀吉の配下である森長可(ながよし)や池田恒興(つね
おき)と激闘をくり広げ、撃破する手柄を立てたのだ。秀吉は敵であ
る直政の働きを称賛し、「井伊の赤鬼」と呼んだという。
こうした働きもあって、1585(天正13)年、直政は井伊谷本地6万石
を拝領することになる。井伊谷は井伊家の旧領であった。家康に仕え
て11年、ついに直政は先祖代々の所領を取り戻し、お家の再興を果た
したのである。直政はさっそく生みの母に報告するが、育ての母であ
る直虎はすでに死んでいた。直政は井伊谷にある菩提寺を訪れ、先祖
の墓前で手を合わせたという。
★箕輪12万石を与えられ筆頭家老に
秀吉の命により家康が江戸に国替えとなると、関東の要衝の地である
上野(群馬県)箕輪の12万石を与えられている。
家臣のなかでもっとも高い石高で、忠勝や康政でさえ10万石止まり、
つまり直政は、徳川家の筆頭家老となったのである。家康の期待に応
え続けた結果であり、また、直政を気に入った秀吉からも家康へ強い
働きかけがあったともいわれている。
直政は、北関東の重要拠点である箕輪を治めたのち、高崎に移って高
崎城を築いた。その後、関ケ原の戦いで活躍して石田三成領であった
佐和山(滋賀県彦根市)に移る。
佐和山は、中山道と北国街道が交わる交通の要衝であり、豊臣家をは
じめとする西国大名を監視する場所でもあった。石高はさらに増え、
18万石となっている。佐和山に移った直政は、新たな城を築こうと
計画したが、関ケ原の戦いで受けた傷がもとで1602(慶長7)年に死
去した。翌年、家康が征夷大将軍となり、泰平の世といわれる江戸時
代がはじまる。
直政は、徳川軍団のメンバーのなかでは、もっとも遅く家康に仕え
はじめたが、またたく間にのし上がって古参の猛将を抜き去った。し
かし、江戸幕府が成立する直前にこの世を去るのである。
さて、スタートしたばかりの江戸幕府は、長期の公共事業として彦根
城の築城に力を入れた。大坂の陣で一時中断したあとは、直政の次男
・直孝が引き継いでいる。堀や櫓(やぐら)、町割りなどが完成し、
街道の整備が終わったのは1622(元和8)年といわれている。
直政に気質が似ていた直孝は、赤備えを率いて大坂夏の陣で先鋒を務
めた。豊臣方の長宗我部盛親や木村重成の部隊を撃破し、最後は豊臣
秀頼を自害に追いこむ大活躍をみせた。この結果、井伊家は譜代大名
のなかでも別格の扱いを受け、30万石まで加増されている。現在、彦
根市のキャラクターとして知られる「ひこにゃん」は、直政が率いた
「赤備え」と、直孝を雷雨から救ったとされる「招き猫」がモチーフ
となっている。彦根には、「井伊の赤備え」の伝統が生き続けている
のである。




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